仕事と子育ての両立

2009年04月01日 02:42

15年前に離婚をした時、私は自分の人生を一からやり直そうと思った。それまで常に誰かが求める理想的人間になることが正しい(らしい)と思い込んで生きてきた自分の人生を、ありのままの自分自身らしく生きる、という道に軌道修正をしたかった。

しかし、自分らしく生きる自由を選ぶからには、背負った責任は必ず果たさなければならないことや、ありのままに自由に生きるということは、回りからどのように思われようとも自分を貫く強さがなければならない、ということも自覚していた。それが出来なければ、自由ではなく、単なる我侭勝手になってしまうからである。それはイヤだと思った。

以来、私はありのままの自分らしく自由に生きる、そのために、何故か血の滲む努力をする、というような状況になった。

自分らしく回りにとらわれず自由に生きるということは、つまり降りかかるすべての困難を自力で乗り切ることも同時に意味する。また自由に生きるには、それ以上の「責任」を果たさなければならない。更に、他人や社会に振り回されず、自由に自分らしく生きるということは、時に孤独と向き合わなければならない。泣く時はいつでもひとり、それが自由の代償でもあった。

という具合に、自由に生きるということは、思いのほか不自由なのである。

しかしそんな重責や孤独を背負ってもなお、自分が自分らしく生きることの幸福の方が、私にとっては勝っていた。自由のためなら、どのような苦難も乗り越えようと思えた。

おかげで色々なことを学び、自由に生きるための知恵や、貫いて生き抜く強さのようなものが身についた、と思う。

そして早15年。

気がついたら、私は非常に強い人間になっていた。

強くなると余計に自由に生き易くなり、自由の実感度合いは年々増し続け、もしかして今が自由満喫度合いMAXの状態にあるかもしれない、とも思う。

そして、ここまで自由に生きてきた人生に一片の悔いも無いし、満足している。



・・・しかし、最近ちょっと思う。

自分はこれほど自由に自分らしく生きているけれど、果たして世の中の人達はどうなのか。

多くの人が、納得のいかないことでも、それが世の中や組織や会社の常ならば、やむを得ず自分を曲げて生きている(ように見える)ではないか。

そういう、自分を曲げて世の中や組織や会社を存続し守ることに力を注ぐ人達がいて初めて、それらが成り立ち、経済さえも回っている、それが現実ではないだろうか。

もしもすべての人が今の自分のように、自分を貫いて自分らしく生きるなら、社会も組織も成り立たず、おまけに経済が停滞するんじゃないの?

その中で、好きなように自分の道を生きる私って、どうよ?

うーむ。

これからは、大手を振って自由に生きるのではなく、ソッと密かに自由に生きることにしよう・・・。
って、結局反省ナシか(^^;オイ


だって、もう戻れないんだもん。いやホントにすいません。

私の回りの小金持ちの皆さんは、悩み多き人が多い。

家庭内の摩擦の原因というのは、余計な金を持つことによって生じる可能性が極めて高い、ということを感じる。

先日、娘が「うちは貧乏でよかった」などととシジミジ述べていた。

理由を聞くと、家庭問題などで悩んでいる友達の話をきくと、根本の原因が「金と暇があるから起こっている」というように感じるからだそうで。

例えば、母親が子育てを放棄して遊んでばかりとか、父親が浮気していて女に貢いでいるとか、その手のことは、そもそもお金がないと起こり得ない、ということだから、だそうで。

いや、まったくその通り。

我が家は、いつもお金がギリギリなので、遊ぶ金もヒマも全然無いので必然的に私も真面目に働くことになる。子ども達も、ブランドに熱中したくても出来ないし、それより自分の将来の夢や希望を叶えることを先に考えることになる。

言い換えると、とくに努力することもなく我慢しているわけでもなく、普通に日常を過ごすだけで真面目に生きられて、余計なトラブルも起こることなく、妙な欲が起きる暇もないので目先の欲望に惑わされず、将来に夢や希望を描けるという、これは一石二鳥ではないかね。

というわけで、お金は家族が食べて生活が出来る程度にあれば充分で、それが最も幸福だ、というハナシ。

2007年12月15日 21:54

 今年度は、人生最大に学費のかかる年となった。

 長女の専門学校は、入学時(3月末)に入学金と前期授業料、夏に後期授業料、そして年明け2月には2年次の授業料全額一括払いというしくみになっている。なんと1年間で2年分の学費を支払うことになっている。

 次女の私立高校は、入学時に3年間分の施設費用や諸費用を一括払いすることになっているので(授業料のみ分割)、入学時の支払いがやたらと高く、均等するとやっぱり2年分以上の学費を払ったことになっている。


 この1年はつまり、2人分×2年分の学費を払ったことになっているではないか。どうりで金が無かったわけダ。


 お国の奨学金制度なども利用しているが、奨学金は毎月分割で入ってくる仕組みなので、先払いする額がこれだけ大きいと結局は大半のお金を自分で工面せざるを得なかった。

 毎月のようにまとまったお金が出て行き、入出金の激しさに後半はお金が足りるのか不足するのか自分でもよくわからなくなり、とにかく目先のお金の帳尻を合わせるので精一杯で、精神的にも結構キツかった。

 考えると、よく乗り切ってきたかも。と今更思う。

 家計は相当切り詰めたし、そういえば自分の服も買ってないし飲みに行く回数も激減したけど、仕事が忙しくて自然にそうなったので丁度良かったのかもしれない。

 年末になって先のお金のこともやっと見えるぐらいに追いついたので、来年以降のことを考えてみたら、4月以降は長女の学費は2月に払ってしまうからゼロ円だし、次女の2、3年次は授業料のみ。

 なんと、今年度払った学費に比べれば、遥かにお安いではないか!


 考えただけで幸せ気分。キャ〜(≧▽≦)

 



2007年08月06日 10:34

忙しいという字は、心を亡くすと書く。

というわけで、私が今猛烈に忙しいのは前の前の記事で書いた通り。

大体私は普段から忙しいクチである。その忙しさが、かなり忙しいのか、猛烈に忙しいのか、死にたいぐらい忙しいか、というような違いはあるけれど、忙しいことには変わりない。

常に忙しい理由は、独立しているから、入った仕事は何でも引き受けるという貧乏性気質のせいでもある。仕事を断ると次が無いという危機感から、無理やり仕事を詰め込んでしまうのは、起業した人ならわかる感覚だと思う。また、私の仕事は種類が多岐に渡り、系統の違う仕事を複数種類同時進行しなければならないことになっている。これも貧乏起業家故に、何でも引き受けているうちにこのようなことになってしまった。

だから、ある時は深夜に自宅で黙々と原稿を書き続けたかと思いきや、その翌日には数字を挙げるために営業に出かけてプレゼンしまくり、かと思えば事務所に引き篭もってデータ集計や事務に明け暮れ、ある時は編集とファイリング、その次には支払い作業と資金繰り計算など、その度に使う脳みそが違っているような複数種類の業務を次々に繰り返している。

また母親という立場としても、子育てや家のことや学校行事に進学問題、思春期の子どもの動向チェックなどなど、考えたり神経を使うことが多数ある。とくに子どもに関することは突発的に用事が発生する率が高く、その場で瞬間的に判断して動くことが多くなる。

こういう日常を過ごしていると、一番必要な能力は「切り替えの早さ」「瞬間的な判断力」「臨機応変」ということになる。更に、その場その場を確実にこなして後回しにしない、というような徹底さも必須である。明日に回して明日出来る保障は無いからだ。

ちなみに、この「切り替えの早さ」「瞬間的な判断力」「臨機応変」というような能力は、経験値によりアップする。その場で即座に判断をするという経験を多数繰り返すほどに、切り替えや判断力が早くなり的確な判断が出来るようにもなる。自分が偶然にも、常に多数の物事をかかえ常に予定が急変し毎日何度も頭を切り替える、という日常を過ごしたことにより、この才能が人並み以上に発達したらしい、ということに最近気が付いた。その代わり「先々の計画を立てる」という思考が激しく退化したけどね。

ということは逆も然りで、先々の計画を立てて計画通りに物事を進めている人や、同じ系統の仕事だけをしている人は、計画的に仕事を片付ける能力は身に付くが、代わりに臨機応変の素早い判断力とか、頭の切り替え、という能力が退化することになる?と思われる。(多分)


ところで、実は昔の私はかなり神経質な計画大好き人間であった。(20年前までは)その頃は、臨機応変さを求められることに抵抗があったし、無計画に生きる人を「不真面目だ」とさえ感じた。また、感性だけでその場をしのいで器用に生きる人種や、勝手気ままにしながらなんとなく人気者なタイプの人が、ぶっちゃけ好きではなかった。

そういう私にとって、無計画でいることが臨機応変さや素早い判断力を向上させるという現実は、初めは受け入れ難い現実であった。しかし日々の生活があまりに忙しく、あまりに多岐に渡り、あまりに計画がおじゃんになりまくるという日々を過ごすうちに、否応無く無計画にならざるを得なくなり、そうなってみると目から鱗が落ちる心境となった。

一番の驚きが、人生日々ジェットコースター状態となり、一歩この世界に踏み込んでみると、これが案外ワクワクとして毎日が驚きと発見の連続となり楽しい面が多い、ということであった。

また無計画で勝手気ままに生きている人ほど、案外と個性をそのままに輝かせて人生を謳歌している場合が多く、それは「他人にどう思われようとも我が道を歩く」という生き方が、そうさせているということもわかった。

そういうことって、産まれつき無意識に無計画な人には当たり前でどうでも良いことなのかもしれないが、それまで色々なことに縛られて生きてきた私にとっては、かなりの新発見だった。

ただし、無計画のリスクもある。とくに昔の自分のような計画大好き人間には、もう確実に嫌われる。この点は避けがたく、相手の気持ちを察するが故にちょっと寂しい気持ちになるときもある。

しかし、それを除けば大概のことは何とかなり、生きていく上で大いなる支障があるわけではなかった。それ以上に、臨機応変さや判断力の速さを養うという利点は予想以上に大きく、他人の目や評価に関係なく生きることも自分を自由にしてくれた。

以来、私は意識的に無計画な日常を生きることに迷いが無くなった。


ちなみに、私はサラリーマン時代には今より貯金もあったけれど、病気になった時にすべてを失ってリセットしている。我慢して耐えて貯めたお金が猛スピードで失われていくという究極の体験をして、お金は貯めるよりも生きた使い方をする方が良い、という感覚を持つようになった。

というわけで、日々忙しいわりに儲からない現実もあるが(苦笑)、でも、貧乏で忙しくても、結構毎日楽しくて幸せだったりする。生きている実感があるというか・・・これって大きなことだと思う。

結論。

「あえて無計画に生きる」ことは、人生そのものを長い目で計画的に考えると、究極の計画的な生き方なのである!(多分ネ(^^;)



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