思春期の子育て
2009年04月01日 02:22
家庭内の摩擦の原因というのは、余計な金を持つことによって生じる可能性が極めて高い、ということを感じる。
先日、娘が「うちは貧乏でよかった」などととシジミジ述べていた。
理由を聞くと、家庭問題などで悩んでいる友達の話をきくと、根本の原因が「金と暇があるから起こっている」というように感じるからだそうで。
例えば、母親が子育てを放棄して遊んでばかりとか、父親が浮気していて女に貢いでいるとか、その手のことは、そもそもお金がないと起こり得ない、ということだから、だそうで。
いや、まったくその通り。
我が家は、いつもお金がギリギリなので、遊ぶ金もヒマも全然無いので必然的に私も真面目に働くことになる。子ども達も、ブランドに熱中したくても出来ないし、それより自分の将来の夢や希望を叶えることを先に考えることになる。
言い換えると、とくに努力することもなく我慢しているわけでもなく、普通に日常を過ごすだけで真面目に生きられて、余計なトラブルも起こることなく、妙な欲が起きる暇もないので目先の欲望に惑わされず、将来に夢や希望を描けるという、これは一石二鳥ではないかね。
というわけで、お金は家族が食べて生活が出来る程度にあれば充分で、それが最も幸福だ、というハナシ。
2008年02月01日 19:12
我が家には「出された食事に文句を言ってはいけない」という鉄のルールがある。食事を作って用意してるときに態度が悪かったり手伝いを積極的にしない時も目にあまるようだと、これも許されない。
このルールについては、他のことよりもかなり厳しい姿勢を取っている。
「食事を作ってくれる人に感謝しなければならない」のは、人として当然のこと、と私は思っている。だからこの当たり前のことが出来なければ許されないよ、というのが我が家流。
思春期になった娘達は私のこうした姿勢についてそれなりに反発がある模様で、娘達は「お母さんは自分に感謝しろって言いたいだけじゃん」などと言っている。
昔からずっと貫いているルールに今更文句を言われても。
しかし他の家庭の様子をみて、あまりに我が家とは違うことにカルチャーショックを受けて、うちはどうしてこんなに厳しいんだ?と反発する、というような心理もわからなくはないけどね。
娘達によると、ある友達の家庭では出された食事にその家の娘が「お母さん、これマズいよ。いらない」などと言い捨ててオカズを残しても「あらそう、ごめんなさいね。」と、作ったお母さんの方が謝るそうである。おまけに「じゃぁこっちを食べなさいね」と特別仕様のおかずに摩り替えて他の家族と違うメニューにするとか。
娘に「それってアナタの前だからじゃないの?」と、子どもの友達が来ているから親も叱ることを控えているだけじゃないのかと聞くと、友達によるとそれが普段の姿であるとか。
へ〜〜〜本当ですか?皆さんの家庭ではそうなんでしょうか。
「食事は楽しく」・・・確かにそういうこともあるので完全否定まではしないけどねぇ。
しかし私の感覚で言うと、マズイと言うぐらいなら食べるなよ、と思うのである。
※ ※ ※
と、この文を書いたのは結構前のことだが、ブログにアップする機会を逸していた。
そして最近、新たな発見をした私。
出された食事に平気で文句を言うタイプの人は、「食」に対してこだわりが少なく、美味しいものを美味しく食べたいという願望の薄い人種のようである。平たく言うと、明らかに「食通」ではない、という人達である。つまり、食へのこだわりが薄いために気軽に「マズイ」と言えるのだ。
反対に食通タイプの人種は、美味しいものを食べると幸福感に満たされるし、美味しい食事の有り難さを心底実感するので、自然に、作ってくれた人の技術や心に思いが及ぶ。
我が家は家系的に家族全員が食通であり、美味しいものが大好きだし、私自身もそうである。だから、出された食事に感謝して残さず食べることはアタリマエ、「美味しいね」という言葉が出ることもアタリマエ、マズイなどとは滅多に言ってはならないこと、これ当然、という感覚になるのだろう。
味覚の感性感覚は環境だけでなく遺伝的な要素に左右されることもあるので、出された食事に文句を言うバカを単なるバカとも言い切れないのかもしれない。むしろ気の毒な人達ではないか。最近そう思う。
2007年07月01日 06:16
知人のブログで説教のやり方について語っているものがあり、なかなか面白かった。
彼の説によると、説教というのはだいたい30分で一巡し、それ以上となると同じ話を繰り返すことになる、という件がある。うんうん、わかるわかる。
なので説教は30分として、あとはその場その場で1分程度の小言を繰り返し言うことで、無意識的に相手に物事を伝えるやり方が良いのではないか、というようなことが書かれていた。刷り込み作戦というわけか、ふむふむなるほど。
そして彼は、それを自分のお子さんに試してみて、その方法論が正しいかどうかを検証してみると書いてあった。
彼の考え方は、実は大筋で私の考え方に近いものがある。というわけで、彼がやろうとしている検証を、私は既に自分の娘達に試しているのである。そしてその子達は今18歳と15歳になっている。
その結果が果たしてどうなっているか、彼としては気になるところであろう。というわけで、ここで彼に報告を兼ねて結果を書いてみる。
結論から言うと、彼の持論は基本的には正解だと思う。
基本的には、と書いたのは、基本じゃない部分で不正解なのか?という曖昧な表現なので、話を引っ張るなヨ、と思うかもしれないが、一言で書くのはチト難しい。
・・・とりあえず思うままに書いてみる。
まずは、説教を短めに小言を多く方式で育った私の娘達がどうなったかと言うと、人並み以上のタフな精神力と旺盛な自立心を持ち、気持ちの切り替えがうまく、立ち直りが早い。切り替えや立ち直りが早いのは、説教を短めにして即座に切り替えるようにしてきたことの効果なのかもしれない。小言による刷り込み作戦も、子ども達の心に自然に根付いている「正義感」や「ケジメにこだわる考え方」などに効果が現れているように思う。
というわけで、作戦大成功じゃん?
しかし、我が家の子達が、私の叱り方についてどういう感想を持っているかを聞くと、それは「年中怒られている」というモノであった。
ちなみに「説教が長くない」ということについては何の評価も認識も無く、それ以上に“すぐにガミガミ言われるのがイヤだった”ということに強い印象を持っていた。
・・・う〜む、親の苦労子知らず(苦笑)
我が家の子達が逞しく育った理由は、私の教育方針そのものが厳しかったことや子どもの性質のせいであり、説教の方法論の影響はさほど大きくないらしい。
そういえば、私の親は非常に厳しく説教が長いタイプだったけれど、思い返せば小言は少なかった。そして、その親に育てられた私という人間は、娘達と同様にタフな精神と旺盛な自立心があるタイプだし、正義感や価値観を知らない間に親に刷り込まれていたことも今更実感している。
だからさ、説教の長短や小言の多い少ないに関係なく、結果は同じだったのである。(残念ながら)
若き親だった頃は、自分の親を反面教師にしたつもりが、「厳しい親」という点で全くソックリであったと今は認める思いになっている。
それでも「長すぎる説教」は、説教する側が自己陶酔に走るという間違いを起こしやすい危険があるので、そうならないように気をつけることには確かに意味があるとは思う。
しかし一番大切なことは、子どもへの愛情や責任のもとで、良い人間に育ってほしいと願う親としての熱い思いを子どもに伝えようとする信念があるのかどうかであり、子どもに影響するのはその「思い」であると私は思う。
その思いの下であれば、方法は問わないのではないか。。。というのが結論。
私の親の「長い説教」は、私を一生懸命に育てようとした親としての信念と熱い思いの結果であると、今の自分には心底よくわかる。私の親は本当に一生懸命に私を育ててくれた。そして私も同じように子ども達を一生懸命に育ててきた。
我が家の子達は、私を反面教師にして、自分の子どもには説教を長く小言を少なくするかもしれないし、孫はそれに反発してその反対を・・・と繰り返すのかもしれない。でも、それで良いと思う。方法は違っても、子どもを一生懸命に育てようとする親としての思いは、私が親から受け継いだように、きっとこの先も代々伝わるだろう。
2007年06月07日 11:29
次女が、クラスの中の、雰囲気を悪くする数名の勝手な子たちへの不満やムカつく心境などを話した。
聞いていて、ちょっとイヤなかんじがした。
そこで、
誰もがあなたのように、明るく前向きな性格なわけじゃないと思うよ、と話す。
「じゃぁ、暗くて弱くて自分勝手な人が正しいの?」と次女。
そうじゃない。
「暗くて弱くて自分勝手な人を見たとき、ムカつく思いや蔑む思いを感じるか、それとも悲しさや残念な思いを感じるか、あなた自身の心のあり方の問題だよ。あなたの主張は間違ってないけれど、強い人間の理論なのよ。
でも、あなたにも昔、弱くて我侭でイジめられた時があったでしょう?その時、皆に責められ蔑まれてどんな思いがしたかを忘れないでほしい」と話す。
次女無言。
少ししてから「さっきお母さんが言ったことの意味わかる?」と聞くと、「うん、わかったよ」とのお返事。
伝わったらしい。よかった。