板橋で働く女社長のBlog

仕事も子育ても両方やりたい主義で生きてきて、 気がつけば子ども達は大人の年齢に。 そして益々パワーアップしたアタクシ!?…の日常を綴ります。

母子家庭

我が家流の子育てを振り返る

(すいませんが、自画自賛的内容です・・・照) 

 我が家が母子家庭になったのは18年前。今や子ども達も22歳と19歳になっている。ひとりで子育てをしてきた18年間を振り返ると、今更ながら、あの時もっとこうすれば良かったという反省は多々ある。自分の未熟さが原因で子ども達に苦労させたことも、申し訳なかったと思うことも、実際たくさんある。

 それでも、それなりに元気に明るく育ってくれている娘達を見ていると、母子家庭のわりにはソコソコうまく子育てできたのかもしれないと、ひとり自画自賛感覚も味わっている今日この頃。
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

 とくに自画自賛を一番感じる理由は、我が家が、親子姉妹共に非常に仲が良いことにある。3人揃うと話が弾み、うっかりすると深夜になってもまだまだ話が尽きない。話す内容は世間話から人生観まで多岐に渡り、私自身も娘達と会話する時間がとても楽しい。楽しすぎて夜が更けて朝が近づいても止まらないので、私が無理やり「もう終わり、解散!」と制止しなければならないぐらいである。

 娘達も「うちってホントに明るいよね」と言う。娘達の同世代の友人達の中には、家庭の中に様々な事情やトラブルを抱えている子もいるそうで、娘達はそういう子から相談を受けることも多いとか。すると、我が家が母子家庭という環境にありながらも常に明るかったことを、より実感するとも言っていた。

 家庭内の悩みは、多くの子ども達が誰にも言えず胸の奥底でひとりかかえているケースが多いようである。娘達も、友達から「今まで誰にも言ったことが無い」と言って打ち明けられるケースが多い、と言っていた。

 内容は様々であるが、例えば、父親が好きになれず数年近く口もきかず互いに無視し合っているとか、母親が趣味に走り家庭を顧みないとか、中には母親の浮気や、親の借金、父親が犯罪で逮捕されたなど深刻なケースもある。

 両親が揃い金銭的に余裕があり、我が家よりも恵まれているように見える家庭環境にありながら、心の奥底に暗い悩みを抱えている子ども達は案外少なくないらしい。

 また母子家庭でも親子間に摩擦やすれ違いのある家庭、親に疑問や不満を持ちながら言えずにいる子、再婚家庭に育ちその中で悩みを持つ子などもいると言っていた。

 どのような悩みや苦しみも、それを誰かに打ちあけることが解決への第一歩になるのに・・・悩みをかかえる若者は、それが出来ないから問題を深く大きくしていると感じる。

 悩みや葛藤を打ち合けられるような家族、または友達、そういうものを持っているのと持っていないのとでは、人生そのものがまるで違うものになるんじゃないだろうか。そして家庭は、大概の事をぶっちゃけて打ち明けたり、時にはぶつかり合っても本音を吐き出せる場であるべきだと私は思う。

 この点に関して娘達は「確かにうちでは、聞けないとか言えないってことは無いよね」と言っている。つまり我が家には、子ども達にとって聞くに聞けないような「タブー」が無い。

 「家庭内にタブーが無いこと」これって家庭を築く上で重要なポイントという気がする。

 我が家にタブーが無いのは、それはもちろん親である私がそのように仕向けてきたことが大きい。ほほほ(←また自画自賛かよっΣ(゚д゚;)

 どうやったのかというと、親である私自身が子ども達の前でオープンでタブー無しの生き方を見せるようにしていたのである。子ども達が幼い頃は、

●母子家庭であることを回りの人に堂々と話し、これは隠すことでも不幸なことでもないと娘達に思わせた。
●休日は必ず親子や家族ぐるみで多くの人と遊ぶ機会を多くし孤立していなかった。つまり寂しさを感じさせなかった。
●子ども達の前で、私は常に強い母親として存在し(そう演じていた)、お母さんだけでも全く心配は無いんだと思わせて、父親がいない不安感を少なくした。
●家庭の中で、他愛のない会話で親子で爆笑したり、大概の事を笑い飛ばすようなオープンな雰囲気を作るよう心がけた。

 こういう日常を幼い頃に過ごすと、子どもは自然に何でも話しやすくなるし、何のタブーも感じないことになる。

 でも実際は、例えば離婚に至る夫婦間の大人の話を、何でも娘達に話してきたかというと、案外そうでもなかったりする。正確に言うと、子ども達を傷つけない言葉や表現を使って何でも話し、そして何でも聞いていいんだよ、何でも話すよという空気を作る工夫をしてきた。

 それから、子ども達の前で私はあくまで「母親」だった。
 実際は、泣きたいほど辛いことも、ひとりで不安な時もあった。それに外では恋もしたしそれなりに自分の人生も楽しんできた。でも、子どもの前では強く頼もしい母親をしてきた。実際私は自分の子どもが大切で大好きだし、子ども優先で生きてきたので嘘をついていたわけじゃない。ただ、とくに女の部分を子どもの前で見せる必要は無いと常々思ってきた。

 現に我が家は娘達が小学生の時から、家は「男子禁制」というルールを引き、娘達も男の子を家に入れないが、親の私も男性を家に入れることは殆どない。そのルールは今現在もそのままで恋愛は外でするものということになっている。

 母子家庭仲間の中には、この辺りのケジメが甘いと感じる人は案外多い。尤も、そのせいで私は未だに再婚せずシングルライフを満喫しっぱなしなので、善し悪しもあるとは思うけれどネ(^^;

 子育ても、家庭の雰囲気を作ることもそうだけれど、こういうことは、ようは「親の工夫次第」って部分が大きいと私は思っている。どこにラインを引くのか、あるいはどう使い分けるか、そういうケジメみたいなものに対して注意を払う、ということにすべてがかかっているような気がする。

 子ども達の前で、何か触れてはならないタブーを感じさせることには何のメリットも無いと私は思う。子ども自身は、知りたい事や聞きたいことがあったとしても、小さい時は「お母さんを傷つけたくない」という本能で自ら何も言わなくなるし、思春期を過ぎてからは、本人もそのことに触れるのが怖いという感覚もあり、どこかで疑問を抱えながらも言えない、ということになる。

 それって、子どもの成長にとって百害あって一利なしじゃないかと思う。

 だから家庭内のタブーはなるべく少ない方がベストなのである。

 ただし、タブーを無くせば、別の問題もあることはある。

 とくに、思春期あたりでは子どもから強い批判を受ける時期が来る、ということもことも避けられない。子どもは親を良く見てるので、隠しようも無い親の欠点やイタイ所を見つけ、タブー無しの空気のおかげで遠慮なく突いてくる。

 たとえば離婚の事実は母親である私にとっても辛く苦しい経験だしトラウマもある。そこを容赦なく攻撃されるのでホントにこれはとても辛い。私も娘に批判されて、マジギレしたり、そんなコトもあったっけ。

 それでも、たとえぶつかり喧嘩になっても、それは必要なことではないかと思う。子どもは「親を越えたい」という願望を持つべきであり、だから親の欠点を見つけて批判する過程を経るのは、子どもが大人へと成長する原動力になると思うからである。

 親に不満を持ち、あるいは理想像を求めたままの感情を大人になってもずっと捨てきれない人は、思春期の時期に当たり前に持つ反抗心や、若気の至りからくる無謀な挑戦意識を、親に対して抱けなかったということであり、それは大人に成長することを遅らせることになると私は思う。若い時は、尊敬していたはずの親の欠点を見つけてイラっとして「あんなの乗り越えてやる!」と思うぐらいでイイのだ。それが若気の至りだったと気付くのは、本人が親になってからで充分。

 それでも、実際に我が子に非難をされると、正直な心境を言えば「親の経験のナイ君達に言われたくも無いゼ、このアンポンターン!だいたい誰のために今まで苦労してきたと思ってるんじゃい!そのアンタがそれを言うのかぃ?」という気分になってブチ切れそうになるわけだが、しかし、娘達は親としての経験が無いからこそ言っているというコトがミソである。

 知らないんだから見当違いな批判をしても、それは仕方ないことと、ある程度割り切ったり冷静に考えることで、私はそれをなんとか受け止めることが出来ていたと思う。

 そして、説明しきれないことやわかり合えそうもないコトについては、「思春期には思春期の、二十歳にはハタチの考えがあるのと同じように、親にも親だからこその考えがある。46歳の私には46歳の私の考えがあるの。あなたの望む理想の親になることは、46歳の私からすれば間違っていると感じるので、その望みには答えられない。」というような言い方をしてきた。

 また「たとえ親子でも価値観や考え方が違うことはある。それでも、互いの思いや考え方を話して伝え合い、認め合うのが家族」ということを娘達に話し、そういう空気を家庭内に作る努力をした。

 子ども達が思春期を過ぎた今でも、親である私の考えと娘達の考えが一致しないことは多々あるし反発されることもある。というか、ぶつかる時は親子姉妹でも相当激しくぶつかるのも我が家流なのである。

 でも大概、すぐ仲直りになる。

 一致し合えないコトについては、言うだけ言ったら、あとは追及しない。時に、取っ組み合いや暴言の言い合いになったりした時も、もうそれは無かったコトにしてお互い水に流す。あれほど大ゲンカして揉めたにもかかわらず、翌朝は何事も無くいつも通りに明るく接する。

 もちろん、そういう方向に一気に持っていくのは親である私が率先して行っていることだけれどね。そこら辺は、オトナである自分がオトナになるべきだと思い、そうしている。

 娘達は私に対して、口煩いとか、すぐ怒るとか、シツコイとか、自己満足が強すぎるとか(苦笑)不満は多々あるそうナ。ナハハ。でも全然気にしないもーん(・∀・)

 それでも母子家庭に育ったことへの強い疑問や不満は感じていないと言っていた。というより、その点は現実として受け入れ乗り越えたのだろう。それだけで私は充分自己満足に浸れるのよね。うしし

 そんなわけで、我が家が明るくて楽しくて仲良しなのは、まあ結局、親である私の功績よね。ホホホホ〜と最後まで自画自賛ですいません。

おひとり様な日々

昔、子どもが大きくなったら何を支えに生きていけば良いんだろうか?と漠然とした不安を感じたりしたものだが、しかしそれは無用な心配であった。だってアタシ、性格的に寂しがり屋ではないので、案外平気なモンだなぁ〜と年を追うごとに実感している次第。

というわけで最近のアタシは、おひとり様人生を楽しんでいる。

それに娘達も大きくなったので、今は ただ無責任に可愛がっていれば宜しいということになって気分的にラクになった。長いこと義務と責任で自分をがんじがらめにしてきた日々とも、そろそろオサラバできるかと思うと非常に喜ばしい。ま、次女がまだ未成年なのでもうちょっと責任は続くけどネ。

足腰が悪くなって思うように動けないのがチョット難ではあるが、でも、ここ数年の私はアウトドアーでもなく運動嫌いだったので、もともとアクティグになりたいような願望が無いから、コト無きを得ている。きっとスポーツマンな人が今の自分と同じ状況になったら極度のストレスを感じるであろうけれど、私の場合はそれほど大きなストレスにはならずに済んでラッキー。

昨年から始めた趣味のベンラダ菜園は、最初は足腰悪いからもう出来ないかなーと思ったりもしたが、しかし色々と工夫をすればやってやれないことはない、と最近発見した。背の低い葉っぱモノのお野菜はベンチや台の上に乗せて育てると腰が痛くても世話しやすい。種や苗から肥料や資材まで、すべてインターネットで注文すれば玄関先まで宅急便屋のオニイチャンが届けてくれる。だから今年もベランダ菜園を継続することにした。

体が悪くても、工夫すれば出来ることは結構あるのだ。人間には順応力というスゴイ力があるんだニャ〜。

仕事面では色々と模索中。この体になって出来なくなったこともモチロンある。でもその代わりに、今まで自分の中で遠慮したり遠回りしたりしてやらなかったことも「生きてるうちにナンでもやっておけ」という心境になり何でもチャレンジしてみようという気になった。

というわけで、これからが色々と楽しみな今日この頃。

私らしく生きる罪

15年前に離婚をした時、私は自分の人生を一からやり直そうと思った。それまで常に誰かが求める理想的人間になることが正しい(らしい)と思い込んで生きてきた自分の人生を、ありのままの自分自身らしく生きる、という道に軌道修正をしたかった。

しかし、自分らしく生きる自由を選ぶからには、背負った責任は必ず果たさなければならないことや、ありのままに自由に生きるということは、回りからどのように思われようとも自分を貫く強さがなければならない、ということも自覚していた。それが出来なければ、自由ではなく、単なる我侭勝手になってしまうからである。それはイヤだと思った。

以来、私はありのままの自分らしく自由に生きる、そのために、何故か血の滲む努力をする、というような状況になった。

自分らしく回りにとらわれず自由に生きるということは、つまり降りかかるすべての困難を自力で乗り切ることも同時に意味する。また自由に生きるには、それ以上の「責任」を果たさなければならない。更に、他人や社会に振り回されず、自由に自分らしく生きるということは、時に孤独と向き合わなければならない。泣く時はいつでもひとり、それが自由の代償でもあった。

という具合に、自由に生きるということは、思いのほか不自由なのである。

しかしそんな重責や孤独を背負ってもなお、自分が自分らしく生きることの幸福の方が、私にとっては勝っていた。自由のためなら、どのような苦難も乗り越えようと思えた。

おかげで色々なことを学び、自由に生きるための知恵や、貫いて生き抜く強さのようなものが身についた、と思う。

そして早15年。

気がついたら、私は非常に強い人間になっていた。

強くなると余計に自由に生き易くなり、自由の実感度合いは年々増し続け、もしかして今が自由満喫度合いMAXの状態にあるかもしれない、とも思う。

そして、ここまで自由に生きてきた人生に一片の悔いも無いし、満足している。



・・・しかし、最近ちょっと思う。

自分はこれほど自由に自分らしく生きているけれど、果たして世の中の人達はどうなのか。

多くの人が、納得のいかないことでも、それが世の中や組織や会社の常ならば、やむを得ず自分を曲げて生きている(ように見える)ではないか。

そういう、自分を曲げて世の中や組織や会社を存続し守ることに力を注ぐ人達がいて初めて、それらが成り立ち、経済さえも回っている、それが現実ではないだろうか。

もしもすべての人が今の自分のように、自分を貫いて自分らしく生きるなら、社会も組織も成り立たず、おまけに経済が停滞するんじゃないの?

その中で、好きなように自分の道を生きる私って、どうよ?

うーむ。

これからは、大手を振って自由に生きるのではなく、ソッと密かに自由に生きることにしよう・・・。
って、結局反省ナシか(^^;オイ


だって、もう戻れないんだもん。いやホントにすいません。

「お母さんはウザい」と言われ

最近、次女と私は些細な口喧嘩を良くする。

そして「この頃のお母さんは、マジうざいよ!」と次女は文句を言う。

「何を言うかこの未熟者め、アンタの方こそウザい」とすかさず言い返す私。

という具合に、くだらない言い合いをして、次女はプンプンしているわけだが、最近の自分が小言が多いのは自分でも認識している。

まぁ、当然と言えば当然。

なにしろ今までは受験があったので、娘の態度にムカつくことがあっても、受験に集中できるようにとガマンをしていたのだ。しかし、やっと受験が終わったので、こっちもガマンする必要が無くなり、だから言いたいことを言っているだけである。

ということを先日次女に説明したら、それなりに納得した模様。

そうやって思春期の娘は、母が神様でも天使でもなく、単なる人間であることを学んで大人になっていく。

これでイイのだ。

弱者を追い詰める国・日本

■「母子加算」段階的廃止の代償、月1万円の就労促進費(読売新聞 - 03月05日 20:11)
http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_07030606.cfm

生活保護を受けている母子家庭に付与されている母子加算という手当てを廃止するんだってさ。

アベシンゾー氏は、生活保護手当てや母子家庭の児童扶養手当の「不正受給者」を取り締まるとかいうことに、以前からこだわりを持っている、ということを聞いていたので、彼が総理大臣になった時に不安を感じていたが、案の定、という感想。

こういう手当てを受けている人の殆どが、働きたくても働けないほどに心身共にボロボロになり、生きることもやっとで、生活もままならない大変な思いをしている人たちばかりである。そういうギリギリの生活をしている人の手当てを減らすことが、どういう意味を成すかわっているのだろうか。惨めさを耐え忍び必死に生きている人にとって、頼みの綱の手当てを削ると言われたら、「死ね」と言われているのと同じことだ。

困っている人に、労わりやエールを送るのが人間として当たり前の感情のはずなのに、国が弱者を追い詰めるとは。それで公平だなんて笑わせるんじゃない、と思う。

行政がやるべきことは、誰もが人間らしく生きられる社会を作ることであるはずだ。

というわけで(どういうわけ?)来週、参議院議員会館での会議に出席することになったので、ちょっと行ってきマス。

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