2011年03月18日 10:44
地震記録
この度の地震災害で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。
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今回の地震体験と過去の地震体験で私や私達家族が経験したことを記録として記載しておく。
3月11日午後、私はキッチンに、娘二人は自宅リビングにいた。私は遅めの昼ご飯を作っている途中で、一部の料理を娘達が食卓テーブルに運び、私は間もなく焼きあがる魚の火加減をみていた。
地震発生時、最初は大きくゆっくりと揺れ始め、続いて足元からゴゴゴと響く振動が伝わり始めた。過去の地震被災(28年前に秋田県沖地震を体験している)の経験から、これは大きな地震になると本能が察知(多分)。娘達に、すぐ机の下に入るよう指示した。娘達は滑り込むようにテーブルの下へ。私は魚焼き機のガスを止めてから遅れて机の下へ。
その直後に強い揺れが始まった。
私の自宅兼事務所は東京都板橋区にある。マンションの8階であることと建物の構造的な影響から、地震の際には地上の震度よりもかなり強く揺れることを、この部屋に住み始めた3年前から実感していた。面積と高さによって振動が共鳴しやすい場合がある、ということも聞いたことがある。とにかく、強風が吹いても電車が通っても振動が強い。
家族3人がテーブルの下に避難直後、激しく大きな揺れが始まった。
家具すべてが激しく揺れ本棚が跳ねるように動く。棚の上から空気清浄機が宙を飛ぶように落下。その上に、今我々が隠れている机の上に乗っていた料理の皿やグラス類がすべてガシャガシャと落ちて割れた。
仕事用のスチール製キャビネット上段の扉がテーブルギリギリの場所に落下し書類とCD−Rが机の下まで雪崩込む。鏡付きの細長い収納棚が机に向かって転倒しそうになるのを長女が足で椅子を押さえつけて止めた。
パソコンのディスクトップ画面が落下して私の腰あたりにあたったが痛みなど感じなかった。身を守るのに必死な時には少々の痛みは殆ど感じないらしい。パソコン類はすべて落ちたり倒れたりした。
ゴゴゴという地鳴りと、キッチンの食器棚の食器が落ちて割れ続けるガシャンバリバリバリという音、家具類やドアなどがドンドンガンガンとぶつかり合う音などが、轟音のよう鳴り続けた。それが2分近く続いたように思う。
3人全員がテーブルの脚にしがみつきテーブルの下から投げ出されそうになるのを堪えた。私は、娘達がパニックにならないようにという意識が働いたのか「頑張れ、大丈夫」「とにかく頭だけは机から出さないで」というような言葉を言い続けていた。
揺れが収まると娘達を待機させスリッパを取りにいく(ガラスによる怪我を防ぐためで室内から避難する際は必需品)。
各部屋を見ると、キッチンは足の踏み場なく食器棚の中の食器がすべて落ちて粉々に割れ散乱、各部屋とも耐震対策の無かった家具類はすべて転倒、棚の中のものが残らず床にぶちまけられて散乱し降り積もっていた。
足の踏み場が無い中で玄関までの通路だけを確保し、娘達に「携帯、財布、一回分の着替えだけもってすぐに外に避難。余震が来ると次は危ない」と指示した。
過去に被災した時の余震の恐怖が頭に蘇った。
自分の部屋を見てショックを受ける娘達に「命があるだけで良かったんだよ」と話してすぐに3人で部屋を脱出した。
エレベーターは当然止まっていたので非常階段で地上まで降りた。
今思えば、足腰が悪く片足が不自由な自分が一番足元が危ないし娘達は私を心配していたと思うが、娘を守ろうとする母親の本能?なのか?自分の足腰のことはスッカリ忘れて陣頭指揮をとっていた自分を、あとから滑稽に思えた。
やっとの思いで地上に出る。
するとナント、地上では普通の時間が流れていた。
「もしかして大災害はウチだけ?」決死の覚悟で脱出してきた私達は、拍子抜けすると同時に安堵した。3人でミスタードーナツに入ると、やっぱりドーナツは床に一つも落ちてないし、普通に「いらっしゃいませ」と応対されて苦笑した。
コーラを飲んでとにかく落ち着こうと思った。
1時間ほどして自宅へ戻る。
あらためて悲惨な状況を再確認することになったが、娘達が進んで明るく片づけをはじめてリビング半分にスペースを確保。私もキッチンに座り込んで割れた食器を黙々と片付けた。
時間がたつにつれ東北地域の悲惨な状況を知ることになり、私達家族の受けた災害は全然軽い方だった、ということを自覚することになる。
大方を片づけるのに4日ほどかかったが、片づけてみると本当に無くなって困るものは何もなかった。我が家は無くても良いものを随分たくさん持っていたらしい。
趣味のベランダ菜園は、プランターを並べて置いてあった机が真っ二つに割れて大変なことになったが、これも数日かけて植え直しなんとか再生しつつある。一部手つかずの場所もまだあるが…温かくなるを待ってボチボチ片付けようと思う。
数日が過ぎて、都内は電車の混乱や計画停電や買い占め問題があるが、我が家は私が足腰が悪いので普段から物を買い溜めしているため、有り難いことに追加で買う必要のもの何一つ無かった。都内で品薄な商品の殆どが以前から備蓄されている。懐中電灯は無いけど、それぐらいは他の人に譲ろうと思い買うのをやめた。
都内は駅に行列とか、それなりに混乱もあるが、東京人は元々並ぶことに慣れているので報道は大げさすぎると感じる。
自分に、我が家に出来ることは節電と募金と、いつも通りの日常を粛々とおくることであると思っている。
先日のNHKニュースで、気仙沼に住む友人が取材を受けているのを見た。
ああ、生きていた、ヨカッタと、地震後初めて涙が出た。
携帯電話の充電が可能になったことを取材している内容であったが、彼が携帯で離れた場所に避難しているであろうお嬢さん(多分)に向けて、携帯で連絡をとっていた。
「前向きに、ブレずに頑張ろう。パパも頑張るから」
彼の強さに胸を打たれた。
東北人は我慢強い。苦しくても静かに耐える人々である。
だから絶対に蘇って復興できる。
がんばれ東北人、がんばれ日本!
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今回の地震体験と過去の地震体験で私や私達家族が経験したことを記録として記載しておく。
3月11日午後、私はキッチンに、娘二人は自宅リビングにいた。私は遅めの昼ご飯を作っている途中で、一部の料理を娘達が食卓テーブルに運び、私は間もなく焼きあがる魚の火加減をみていた。
地震発生時、最初は大きくゆっくりと揺れ始め、続いて足元からゴゴゴと響く振動が伝わり始めた。過去の地震被災(28年前に秋田県沖地震を体験している)の経験から、これは大きな地震になると本能が察知(多分)。娘達に、すぐ机の下に入るよう指示した。娘達は滑り込むようにテーブルの下へ。私は魚焼き機のガスを止めてから遅れて机の下へ。
その直後に強い揺れが始まった。
私の自宅兼事務所は東京都板橋区にある。マンションの8階であることと建物の構造的な影響から、地震の際には地上の震度よりもかなり強く揺れることを、この部屋に住み始めた3年前から実感していた。面積と高さによって振動が共鳴しやすい場合がある、ということも聞いたことがある。とにかく、強風が吹いても電車が通っても振動が強い。
家族3人がテーブルの下に避難直後、激しく大きな揺れが始まった。
家具すべてが激しく揺れ本棚が跳ねるように動く。棚の上から空気清浄機が宙を飛ぶように落下。その上に、今我々が隠れている机の上に乗っていた料理の皿やグラス類がすべてガシャガシャと落ちて割れた。
仕事用のスチール製キャビネット上段の扉がテーブルギリギリの場所に落下し書類とCD−Rが机の下まで雪崩込む。鏡付きの細長い収納棚が机に向かって転倒しそうになるのを長女が足で椅子を押さえつけて止めた。
パソコンのディスクトップ画面が落下して私の腰あたりにあたったが痛みなど感じなかった。身を守るのに必死な時には少々の痛みは殆ど感じないらしい。パソコン類はすべて落ちたり倒れたりした。
ゴゴゴという地鳴りと、キッチンの食器棚の食器が落ちて割れ続けるガシャンバリバリバリという音、家具類やドアなどがドンドンガンガンとぶつかり合う音などが、轟音のよう鳴り続けた。それが2分近く続いたように思う。
3人全員がテーブルの脚にしがみつきテーブルの下から投げ出されそうになるのを堪えた。私は、娘達がパニックにならないようにという意識が働いたのか「頑張れ、大丈夫」「とにかく頭だけは机から出さないで」というような言葉を言い続けていた。
揺れが収まると娘達を待機させスリッパを取りにいく(ガラスによる怪我を防ぐためで室内から避難する際は必需品)。
各部屋を見ると、キッチンは足の踏み場なく食器棚の中の食器がすべて落ちて粉々に割れ散乱、各部屋とも耐震対策の無かった家具類はすべて転倒、棚の中のものが残らず床にぶちまけられて散乱し降り積もっていた。
足の踏み場が無い中で玄関までの通路だけを確保し、娘達に「携帯、財布、一回分の着替えだけもってすぐに外に避難。余震が来ると次は危ない」と指示した。
過去に被災した時の余震の恐怖が頭に蘇った。
自分の部屋を見てショックを受ける娘達に「命があるだけで良かったんだよ」と話してすぐに3人で部屋を脱出した。
エレベーターは当然止まっていたので非常階段で地上まで降りた。
今思えば、足腰が悪く片足が不自由な自分が一番足元が危ないし娘達は私を心配していたと思うが、娘を守ろうとする母親の本能?なのか?自分の足腰のことはスッカリ忘れて陣頭指揮をとっていた自分を、あとから滑稽に思えた。
やっとの思いで地上に出る。
するとナント、地上では普通の時間が流れていた。
「もしかして大災害はウチだけ?」決死の覚悟で脱出してきた私達は、拍子抜けすると同時に安堵した。3人でミスタードーナツに入ると、やっぱりドーナツは床に一つも落ちてないし、普通に「いらっしゃいませ」と応対されて苦笑した。
コーラを飲んでとにかく落ち着こうと思った。
1時間ほどして自宅へ戻る。
あらためて悲惨な状況を再確認することになったが、娘達が進んで明るく片づけをはじめてリビング半分にスペースを確保。私もキッチンに座り込んで割れた食器を黙々と片付けた。
時間がたつにつれ東北地域の悲惨な状況を知ることになり、私達家族の受けた災害は全然軽い方だった、ということを自覚することになる。
大方を片づけるのに4日ほどかかったが、片づけてみると本当に無くなって困るものは何もなかった。我が家は無くても良いものを随分たくさん持っていたらしい。
趣味のベランダ菜園は、プランターを並べて置いてあった机が真っ二つに割れて大変なことになったが、これも数日かけて植え直しなんとか再生しつつある。一部手つかずの場所もまだあるが…温かくなるを待ってボチボチ片付けようと思う。
数日が過ぎて、都内は電車の混乱や計画停電や買い占め問題があるが、我が家は私が足腰が悪いので普段から物を買い溜めしているため、有り難いことに追加で買う必要のもの何一つ無かった。都内で品薄な商品の殆どが以前から備蓄されている。懐中電灯は無いけど、それぐらいは他の人に譲ろうと思い買うのをやめた。
都内は駅に行列とか、それなりに混乱もあるが、東京人は元々並ぶことに慣れているので報道は大げさすぎると感じる。
自分に、我が家に出来ることは節電と募金と、いつも通りの日常を粛々とおくることであると思っている。
先日のNHKニュースで、気仙沼に住む友人が取材を受けているのを見た。
ああ、生きていた、ヨカッタと、地震後初めて涙が出た。
携帯電話の充電が可能になったことを取材している内容であったが、彼が携帯で離れた場所に避難しているであろうお嬢さん(多分)に向けて、携帯で連絡をとっていた。
「前向きに、ブレずに頑張ろう。パパも頑張るから」
彼の強さに胸を打たれた。
東北人は我慢強い。苦しくても静かに耐える人々である。
だから絶対に蘇って復興できる。
がんばれ東北人、がんばれ日本!
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