15年前に離婚をした時、私は自分の人生を一からやり直そうと思った。それまで常に誰かが求める理想的人間になることが正しい(らしい)と思い込んで生きてきた自分の人生を、ありのままの自分自身らしく生きる、という道に軌道修正をしたかった。

しかし、自分らしく生きる自由を選ぶからには、背負った責任は必ず果たさなければならないことや、ありのままに自由に生きるということは、回りからどのように思われようとも自分を貫く強さがなければならない、ということも自覚していた。それが出来なければ、自由ではなく、単なる我侭勝手になってしまうからである。それはイヤだと思った。

以来、私はありのままの自分らしく自由に生きる、そのために、何故か血の滲む努力をする、というような状況になった。

自分らしく回りにとらわれず自由に生きるということは、つまり降りかかるすべての困難を自力で乗り切ることも同時に意味する。また自由に生きるには、それ以上の「責任」を果たさなければならない。更に、他人や社会に振り回されず、自由に自分らしく生きるということは、時に孤独と向き合わなければならない。泣く時はいつでもひとり、それが自由の代償でもあった。

という具合に、自由に生きるということは、思いのほか不自由なのである。

しかしそんな重責や孤独を背負ってもなお、自分が自分らしく生きることの幸福の方が、私にとっては勝っていた。自由のためなら、どのような苦難も乗り越えようと思えた。

おかげで色々なことを学び、自由に生きるための知恵や、貫いて生き抜く強さのようなものが身についた、と思う。

そして早15年。

気がついたら、私は非常に強い人間になっていた。

強くなると余計に自由に生き易くなり、自由の実感度合いは年々増し続け、もしかして今が自由満喫度合いMAXの状態にあるかもしれない、とも思う。

そして、ここまで自由に生きてきた人生に一片の悔いも無いし、満足している。



・・・しかし、最近ちょっと思う。

自分はこれほど自由に自分らしく生きているけれど、果たして世の中の人達はどうなのか。

多くの人が、納得のいかないことでも、それが世の中や組織や会社の常ならば、やむを得ず自分を曲げて生きている(ように見える)ではないか。

そういう、自分を曲げて世の中や組織や会社を存続し守ることに力を注ぐ人達がいて初めて、それらが成り立ち、経済さえも回っている、それが現実ではないだろうか。

もしもすべての人が今の自分のように、自分を貫いて自分らしく生きるなら、社会も組織も成り立たず、おまけに経済が停滞するんじゃないの?

その中で、好きなように自分の道を生きる私って、どうよ?

うーむ。

これからは、大手を振って自由に生きるのではなく、ソッと密かに自由に生きることにしよう・・・。
って、結局反省ナシか(^^;オイ


だって、もう戻れないんだもん。いやホントにすいません。