2005年08月01日 02:27
下僕と奇人
いつも読んでいる清水氏のブログで、またもかなり興味深いことを書いていた。
乱暴にいって世の中には二種類の才能があると思います。それはエリートと天才です。
更に、
子供の頃に、親の言うことを良く聞く子供はエリートの才能を伸ばすことになります。実際にお勉強をやってみて、そのうえでダメだったというのは歩留まりの問題(全く同じ製造工程で作っても一定確率で当たりハズレが発生する)なので仕方のないことです。
逆に反抗期が早かった子供は、天才的な才能を伸ばすことになります。親の言うことを聞かないわけですから、逆にいえば自ら主体性を持って自らの欲望と利益のために行動するわけです。こういう子供はガキ大将や一匹狼の不良になるのではないかと思います。学校の授業では居眠りをしてるけど、存在感は人一倍あるというタイプです。
これを読んでいて何か雷が脳天に降ってきたような気がした。そうなのだ、私はそこに書かれている”天才”の人生をそのまま地で生きてきた。
天才かぁ〜エヘヘヘ〜、などと喜んでいる場合ではない。
清水氏は、エリートのことを別の言い方で「一流の下僕」と表現していた。下僕という否定的な表現に合わせて、天才を言い換えれば、奇人とか変人とか我侭勝手とか落ちこぼれ、辺りが当てはまりそうだ。
私は確かに自分が良いと思うことしか興味が無く、組織論などを主体に述べる人を見ると根本的に理解できない部分がある。自分を殺しても人に仕えることにどうして我慢できるのか、それ事態が全く信じられないのだ。
しかし、多数の人はそう思わないということを、今までも何となく知ってはいたが、でも、あらためて確信することになってしまった。。。う〜む。
今まで、組織論の根底が腐っていたり人を陥れるものや騙す要素があった場合に、何故そこまでしても組織論に従うのか、ほんとアホかいな〜?などと安易に思っていたが、エリートは人に使えてこそ存在価値を本人も感じるのだ、ということがやっと理解できた気がする。
私のような人間は組織にいるときっと迷惑をかけるので、やっぱり独立しといて良かったナ〜と、実感。
次に清水氏の文をまた引用するが、エリートを下僕に、天才を奇人に置き換えてみる。
下僕の底辺と奇人の底辺を比較すると、下僕はなんとか生きていけるのに対し、奇人は生存すら危うい状態です。また、双方の頂点を比較すると、下僕は莫大な富を稼ぐのに対し、奇人は生きていくのに十分な富しか稼ぎません。
要するに「奇人は儲からない」のです。
経済や社会というものが、「他人のためになにかをすること(=サービス)」で成り立っているわけですから、自由競争市場において他人の利益に興味がない奇人が必敗するのは当たり前の話です。
ががーん。。。ショックながら正しくその通りだと妙に納得できることが、もっとショック。
自分はお金に固執しないから必要な分しか稼いでいない、と思っていたが、そもそも奇人変人だから必要な分しか稼げないということか。
なんだか一般社会が遠のいていくような気分。アタシってば、やっぱりヘンな人だったんだな〜。
ま〜でも、それでもいいかなぁ、などと思える辺りが奇人気質なのだろうが、せめて自分の興味あることが、人の役に立つこととか、正義とか、真面目に生きること、ということなのが、自分がかろうじて社会の一員としてやっていける要素かもしれない。
今更下僕の人生は歩めないので、あらためて、真面目な奇人を極めようと思った次第。
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