2007年07月
2007年07月31日 02:14
「KY(ケーワイ)」とはイマドキの若者言葉で、訳すると「空気を読めない人(KUUKI YOMENAI)」という意味。
知ってた?
その場の空気が読めない人を、例えばギャル的に言うと「あいつケーワイじゃね?」となる。
ちなみに私がギャル語や若者言葉に多少詳しいのは、現役思春期の娘が2人いるからで、その影響のせいで自分も「キモイ」「ウザくね?」「マジ、アリエナイ」というような言葉を普通に使うようになりつつあり、40歳超えたオバサンのくせにこれでイイのかと自分でも思うのだが、慣れとはオソロシイもので毎日聞かされると確実にうつる。ホント「マジやばくね?」と自分でも思う。
若者の言葉を聴いて、日本語がおかしくなっていると嘆く人もいるかもしれないが、新たな言葉や表現が生まれそして廃れていくその繰り返しこそが文化そのものであり、言語の変化は時代の文化の象徴であると私は思う。
ギャル語を聞いてイライラするお父さん達だって、昔はナウでヤングな新人類だったわけで、時代が変われば言葉が変わる、そのことに目くじらを立ててはいけないのだ。
と、話はスッカリ反れたが、本題のケーワイについて。
KYと言えば、旬なところで、選挙で惨敗したのに「続投して役目を果たすのがワタクシの責任です」と言い張って日本中をシラ〜っとさせてる人なんかは、KY日本代表だと思う。
空気をよめる・よめないということは、コミュニケーション能力の有り・無しを指している。こうした能力は、人間関係の構築や仕事の場面でも大きく影響するし、とくに人と人との関係を作っていく上でとても大切な感覚であると思う。
若者が「ケーワイ(空気よめない)」という表現を好んで使うということは、空気のよめる・よめない、ということを強く意識していることになる。これは、スゴク良い傾向だと私は感じる。なにしろ、ワタシは空気よめない人には昔からすごく抵抗感がある。
空気をよめない人は、不要に人を傷つけたりトラブルを巻き起こしながらも、本人はその意識すら無い。しかし何故か世間はKYに寛大な面があり、悪気がナイからイ〜じゃないかと許されている。あえて指摘をすると、まぁまぁオトナになって…などと回りにたしなめられたりするし、どうしてKYがこうも横行しまくっているのか私には非常に疑問である。
KYは、指摘をすれば居直り、ムチャクチャな理論で自分は悪くないと言い張って、更には被害者面してあちこちに泣きを入れて回りの同情を得てしまう。そういう自己防衛本能だけは天下一品で、生命力が強いというか生きることに貪欲というか妙なパワーがある。そして、自分を指摘するような非KYを排除しようと本能的に画策する力もあり、それが一番厄介な部分である。
そんなわけで、若者がKYという言葉を使い、KYをノーと言っていることには大賛成。
もっと言ってくれぇ〜!
PS
これを読んで、自分もKYかも?と思ったアナタ。アナタはKYではありませんのでご安心を♪
本物のKYは、その名の通り自分がそうであるとは絶対に思っていないので。
2007年07月19日 01:25
忙しいという字は、心を亡くすと書く。
だから忙しいのは良くないというようなことを、以前に尊敬する経営者さんから聞いた。
確かにその通りだ。
今、正に心を亡くしそうなほどに猛烈に忙しい。そのせいか、何故か妙にテンションが高くなったり、かと思えばつまらないことにイライラしたりと、気持ちが落ち着かない。
ちなみに忙しい理由は、仕事が入って儲かっているからではない。断じて違うので、その手のイヤミは言わないでほしい。
忙しさの理由は、当社の優秀なるスタッフFさんが産休に入っているからなのである。Fさんがやればたちどころに終わる仕事を、私がやるから時間をくう上にミスを繰り返し、その上、自分が通常問題なく行っている仕事さえもミスるという悪循環にハマっている。
Fさんが産休に入ってから一番激変したのは自分のデスクの上である。もともと書類を溜め込むタイプだが、それでも彼女が買ってきてくれたラックなどにまとめたり、以前はそれなりに整理されての山積みであった。しかし今や、どこに何があるかわからない山積み状態へと化した。たった数ヶ月でコレか、と自分でも呆れる。
そんな中、長編の執筆の仕事が入って来月ぐらいから更に忙しくなりそうである。喜ばしいことだが、今よりもっと忙しくなるということなので、考えただけでも恐ろしいから考えないことにしよう。
ま、しかし、昔から計画を立てるヒマもなく単に目の前の仕事を次々片付けるというような仕事のやり方には慣れっこになっている。今までもなんとかしてきたし、だからなんとなるだろう、、、多分(?)
あ〜ほんと、忙しくて楽しいナ。
2007年07月01日 06:50
ベストセラー本を連発しているゴーストライターのプロから聞いたことであるが、ベストセラー本の基本は、中学生が読んでわわかる内容であることが目安なのだそうである。言われて見れば確かに、難しすぎる内容ではベストセラーにはならないだろう。
というわけで、私は保険をわかりやすく解説する文筆活動を本業としているわけだが、その際にはこのプロの言葉を参考に、中学生ぐらいの人が読んでもなんとなく意味を理解できるレベル、というのを意識しつつ書くようにしている。
しかし、そもそも保険とは複雑で難しい仕組みの商品が多く、種類が多数あり、更には専門用語連発の業界でもある。それを簡単な表現で書くということは、どこか事実に反することになる。だって元々難しい仕組みのものは難しいに決まっているのだ。
本当は複雑で難しいものをあえて簡単に書く、それがどういうことかと言えば、「大雑把に書く」とか「曖昧に書く」という、実はそういうことになる。
昔「ファジィ」という言葉が流行ったが、これは非常に人間らしい優れた解釈の感覚だと私は思う。この、ファジィ的な文章、つまり「読み手がなんとなく理解できたような、できないような」「全部はわからないけれどとりあえずダイタイはわかったかもしれない?かもね?」と思えるような「わかったような気がする」みたいに感じてもらえる文章、それが“わかり易い文章”ということになる。
ただし、このファジィ加減がミソで、大雑把過ぎてもいけないし、詳しすぎてもいけないという、絶妙なところを選んで書くので、こうなるとこれはこれで一つの技術なのかもしれない。こういう技術を何と称するか知らないが、とりあえず自称「ファジィ三段」ということにしておこうかな。
ところで、保険をわかり易く書くには、どのような知識レベルが必要であるのか。誰よりも保険の仕組みを詳しく知っていれば、その説明文を書けるのか、そう思われがちだが実際はその逆ではないか思うフシがある。
保険を熟知すればするほどに、より正しく正確に書きたくなるのが普通の感覚で、正確に正しく書くには、必ずや専門用語のご登場となる。そして、すべてを間違いなく正確に詳しく書こうと思うほどに、最後には六法全集か?という文章になっていく。保険の約款が何を書いているのかわからないように、正確に書くということは、意味不明な文体に近づくことを意味するのだ。
従って、保険を知れば知るほど、わかり易い説明文を書くことが難しくなる、と言っても良いと思う。
専門用語を使えばヒトコトで済むことを、わざわざ遠回りに説明するのは、本当はヒトコトで済む正確な表現(=専門用語)を知っている立場としては、まるで目の前にあるゴールを横目に、あえて反対方向に走っていくようなものである。
更には、簡単な言葉だけではどうしても表現しきれないモノもあり、表現できない以上、普通に説明するのは無理であるのに、その無理なことを何とかしてやらねばならない。
というわけで、カンタンに書く、わかりやすく書くということは、かくも難しい!ということを主張してみた。
ちなみに、この文章自体は、どうでも良いことを理屈っぽく書いてみたわけだが、こういう文の方がよほど気楽に書けると自分でも実感した次第。
知人のブログで説教のやり方について語っているものがあり、なかなか面白かった。
彼の説によると、説教というのはだいたい30分で一巡し、それ以上となると同じ話を繰り返すことになる、という件がある。うんうん、わかるわかる。
なので説教は30分として、あとはその場その場で1分程度の小言を繰り返し言うことで、無意識的に相手に物事を伝えるやり方が良いのではないか、というようなことが書かれていた。刷り込み作戦というわけか、ふむふむなるほど。
そして彼は、それを自分のお子さんに試してみて、その方法論が正しいかどうかを検証してみると書いてあった。
彼の考え方は、実は大筋で私の考え方に近いものがある。というわけで、彼がやろうとしている検証を、私は既に自分の娘達に試しているのである。そしてその子達は今18歳と15歳になっている。
その結果が果たしてどうなっているか、彼としては気になるところであろう。というわけで、ここで彼に報告を兼ねて結果を書いてみる。
結論から言うと、彼の持論は基本的には正解だと思う。
基本的には、と書いたのは、基本じゃない部分で不正解なのか?という曖昧な表現なので、話を引っ張るなヨ、と思うかもしれないが、一言で書くのはチト難しい。
・・・とりあえず思うままに書いてみる。
まずは、説教を短めに小言を多く方式で育った私の娘達がどうなったかと言うと、人並み以上のタフな精神力と旺盛な自立心を持ち、気持ちの切り替えがうまく、立ち直りが早い。切り替えや立ち直りが早いのは、説教を短めにして即座に切り替えるようにしてきたことの効果なのかもしれない。小言による刷り込み作戦も、子ども達の心に自然に根付いている「正義感」や「ケジメにこだわる考え方」などに効果が現れているように思う。
というわけで、作戦大成功じゃん?
しかし、我が家の子達が、私の叱り方についてどういう感想を持っているかを聞くと、それは「年中怒られている」というモノであった。
ちなみに「説教が長くない」ということについては何の評価も認識も無く、それ以上に“すぐにガミガミ言われるのがイヤだった”ということに強い印象を持っていた。
・・・う〜む、親の苦労子知らず(苦笑)
我が家の子達が逞しく育った理由は、私の教育方針そのものが厳しかったことや子どもの性質のせいであり、説教の方法論の影響はさほど大きくないらしい。
そういえば、私の親は非常に厳しく説教が長いタイプだったけれど、思い返せば小言は少なかった。そして、その親に育てられた私という人間は、娘達と同様にタフな精神と旺盛な自立心があるタイプだし、正義感や価値観を知らない間に親に刷り込まれていたことも今更実感している。
だからさ、説教の長短や小言の多い少ないに関係なく、結果は同じだったのである。(残念ながら)
若き親だった頃は、自分の親を反面教師にしたつもりが、「厳しい親」という点で全くソックリであったと今は認める思いになっている。
それでも「長すぎる説教」は、説教する側が自己陶酔に走るという間違いを起こしやすい危険があるので、そうならないように気をつけることには確かに意味があるとは思う。
しかし一番大切なことは、子どもへの愛情や責任のもとで、良い人間に育ってほしいと願う親としての熱い思いを子どもに伝えようとする信念があるのかどうかであり、子どもに影響するのはその「思い」であると私は思う。
その思いの下であれば、方法は問わないのではないか。。。というのが結論。
私の親の「長い説教」は、私を一生懸命に育てようとした親としての信念と熱い思いの結果であると、今の自分には心底よくわかる。私の親は本当に一生懸命に私を育ててくれた。そして私も同じように子ども達を一生懸命に育ててきた。
我が家の子達は、私を反面教師にして、自分の子どもには説教を長く小言を少なくするかもしれないし、孫はそれに反発してその反対を・・・と繰り返すのかもしれない。でも、それで良いと思う。方法は違っても、子どもを一生懸命に育てようとする親としての思いは、私が親から受け継いだように、きっとこの先も代々伝わるだろう。