2005年08月
2005年08月14日 01:58
2005年08月07日 20:27
以前、自分が小さい会社で営業マンをしていた時、ある企業にプレゼンに行き仕事を取れそうな段階になって、自社の経営者からストップがかかったことがある。
理由は利幅が少ないということで、つまり経営リスクの回避のためだったが、その時自分は社長に強く反対し、この仕事をどうしても取るんだと主張し続けて、最後は社長がそれに折れた格好になった。
その時自分が主張した理由は、決して目先の数字のためではなくて、このクライアントが継続的な顧客になる可能性が高いという確信があったからだった。
しかしそれは、顧客の社風や自社や自分との相性、というようなメンタル面も含め、顧客が求めるものに応えられる体制が自社にあり、そして自分も対応できて更に楽しんで仕事が出来そうな内容であるというような認識と、一種のカンに近いような感覚がミックスした上での、総合的な判断による確信で、だから、それを口では説明するのは難しかった。
そのため、色々言えば言うほど、まるで自分の目先の数字がほしくて駄々をこねているようにしか取られす、そして(も〜しかたがないからイイヨ)みたいなことでなんとか許可されたわけだ。
結果、その顧客との取引は私がその会社を退社して6年の歳月を経過した今でも定期業務が入り続けて、その会社の重要クライアントの一つになっている。
しかし私のその時の判断が、それを予想してのものだったとは今でもその会社の人は誰も思っていないと思う。
あれから6年が過ぎて現在独立経営している中で、再び自分のこの手の経営判断や仕事の選択基準が、他人とすれ違う、ということを実感する場面が増えている。トシをくったせいか、そういう突っ込んだ話をする場面が増えたこともあるだろう。
自分が選ぶ仕事の判断基準とは、まずは自分が楽しいと思える仕事であるかということが最も重要で、その自分の楽しさの満足度は、誰かの役に立っているか、そして自分にもプラスになっているか、またこの先もずっと仕事したいと思えるような相手であるか、というようなことや、その他諸々含めた総合判断による。
しかし、それを直感的に感覚として受け止めて判断するので、理由を理論的に説明するのは困難な部分がある。
自分が、この仕事はなんとしてもやるべきだと思うと、結果や信用は必ずあとからついてくるという確信があるため、無料奉仕的な業務が続いているかに見えていてもそのことが気分的に苦にはならない。
それが巡り巡ってちゃんとプラスになるか、あるいはならないのかを事前に判断している、という、冷静な思考が存在しているからだ。
だからリスク回避と経営判断は自分流には出来ている(と思っている)。
実際、危険な仕事は引き受けないし、回りがやろうよと言うビジネスを強硬に反対するときだって少ないわけではない。
それでも、あの頃と同じように私の判断が回りに理解されない場面は多々ある。
あの頃よりは多少は説明上手になったとは言え、本来が直感的な要素が含まれての判断なので、他人に同様の感覚が無い限り理解を貰えることは結構難しい。目先のことや一時の感情論で言っているんだろう、ぐらいにしか取られていないと感じると、やや空しくなる。
自分がもっと頭が良かったら、自分の選択の判断基準の理由を人にうまく伝えられるのかもしれないが・・・そもそも自分だけの独自の判断基準なら一般論とは思ってらえないのも当然か、悲しいけれど。
自分の進む道は決まっているのに、歯痒さを隠せない感覚に陥る時もある。
わかって貰うには結果を出すしかない。
しかし結果を出してもわかってもらえる確証も無い。
それでもいつか伝わるなら、と信じて進むしかないか。
先般、ある顧客の所に行った時、その顧客が以前から悩んでいる法人の税金に関する事柄について、当社の顧問税理士に考え方や注意点をまとめてもらった文書を持参した。
すると顧客はとても喜んでくれた。内容よりも、そういう対応をすぐにしたことを感謝してくれていた。
で、私も非常に嬉しかった。
ほんのちょっとしたサービスだけど、私が何か役に立ちたいと思った気持ちを誠意としてキャッチしてくれたことに、喜びを感じた。
私もこの顧客が大好きで、真面目な社長と明るくて気さくな奥様の二人の人柄も、苦労して会社を維持してきた努力も、本当に素晴らしいなと感じている。
大好きな人たちに喜んでもらえて、そして仕事が出来る私は最高に幸せだ。
色々な人と出会える営業という仕事を、辞められないと思った瞬間。
執筆や講師業もモチロン大好きだし、本業の執筆業務のウエイトは益々高くなっているけれど、でも私は少しでもいいから営業現場に居続けたいと思っている。
2005年08月04日 23:38
今日締め切りの原稿をなんとか仕上げる。
締め切り間際の自分の集中力には自分でもちょっとスゴイかも、なんて思う。だいたい締め切り間際6時間ぐらいから私の集中力はヒートアップするらしく、通常の作業スピードの3倍以上の速さで仕事を進めている(ような気がする)。
こういう時は、頭の中で、今書いているものをキーを打つ指先に送る思考と、その先に書く文章を組み立てる思考が、頭の中で同時進行しているのがわかる。
イエィ!ノリノリだぜ〜♪
しかし今日は、文章だけではなく、保険の仕組み図13点を、イラストレータを使って画いた。あくまでもデザイナーさんへの指示図なので、凝った絵ではないけれど、でも文を書く時とは使う脳が違うせいか、今日はいつも以上に脳味噌が疲労し、更に肩凝りが激しくなってヘトヘトになった。
でも、なんとか仕上げたゾ。
ふぅ。明日も予定が詰まっている。朝、マッサージにでもいこう。
2005年08月01日 02:27
いつも読んでいる清水氏のブログで、またもかなり興味深いことを書いていた。
乱暴にいって世の中には二種類の才能があると思います。それはエリートと天才です。
更に、
子供の頃に、親の言うことを良く聞く子供はエリートの才能を伸ばすことになります。実際にお勉強をやってみて、そのうえでダメだったというのは歩留まりの問題(全く同じ製造工程で作っても一定確率で当たりハズレが発生する)なので仕方のないことです。
逆に反抗期が早かった子供は、天才的な才能を伸ばすことになります。親の言うことを聞かないわけですから、逆にいえば自ら主体性を持って自らの欲望と利益のために行動するわけです。こういう子供はガキ大将や一匹狼の不良になるのではないかと思います。学校の授業では居眠りをしてるけど、存在感は人一倍あるというタイプです。
これを読んでいて何か雷が脳天に降ってきたような気がした。そうなのだ、私はそこに書かれている”天才”の人生をそのまま地で生きてきた。
天才かぁ〜エヘヘヘ〜、などと喜んでいる場合ではない。
清水氏は、エリートのことを別の言い方で「一流の下僕」と表現していた。下僕という否定的な表現に合わせて、天才を言い換えれば、奇人とか変人とか我侭勝手とか落ちこぼれ、辺りが当てはまりそうだ。
私は確かに自分が良いと思うことしか興味が無く、組織論などを主体に述べる人を見ると根本的に理解できない部分がある。自分を殺しても人に仕えることにどうして我慢できるのか、それ事態が全く信じられないのだ。
しかし、多数の人はそう思わないということを、今までも何となく知ってはいたが、でも、あらためて確信することになってしまった。。。う〜む。
今まで、組織論の根底が腐っていたり人を陥れるものや騙す要素があった場合に、何故そこまでしても組織論に従うのか、ほんとアホかいな〜?などと安易に思っていたが、エリートは人に使えてこそ存在価値を本人も感じるのだ、ということがやっと理解できた気がする。
私のような人間は組織にいるときっと迷惑をかけるので、やっぱり独立しといて良かったナ〜と、実感。
次に清水氏の文をまた引用するが、エリートを下僕に、天才を奇人に置き換えてみる。
下僕の底辺と奇人の底辺を比較すると、下僕はなんとか生きていけるのに対し、奇人は生存すら危うい状態です。また、双方の頂点を比較すると、下僕は莫大な富を稼ぐのに対し、奇人は生きていくのに十分な富しか稼ぎません。
要するに「奇人は儲からない」のです。
経済や社会というものが、「他人のためになにかをすること(=サービス)」で成り立っているわけですから、自由競争市場において他人の利益に興味がない奇人が必敗するのは当たり前の話です。
ががーん。。。ショックながら正しくその通りだと妙に納得できることが、もっとショック。
自分はお金に固執しないから必要な分しか稼いでいない、と思っていたが、そもそも奇人変人だから必要な分しか稼げないということか。
なんだか一般社会が遠のいていくような気分。アタシってば、やっぱりヘンな人だったんだな〜。
ま〜でも、それでもいいかなぁ、などと思える辺りが奇人気質なのだろうが、せめて自分の興味あることが、人の役に立つこととか、正義とか、真面目に生きること、ということなのが、自分がかろうじて社会の一員としてやっていける要素かもしれない。
今更下僕の人生は歩めないので、あらためて、真面目な奇人を極めようと思った次第。