保険ジャーナリスト 森田直子のBlog

板橋区の片隅でヒッソリと保険ジャーナリストしてます。(有)エヌワンエージェンシー代表取締役、インスウオッチ発行人。2010年11月に頚部脊柱管狭窄症で手術を受け足腰がやや不自由な身となりましたが、なぜか原稿書くスピードはどんどん速くなり日々原稿書きに追われております。仕事&シングルマザー生活&趣味のベランダ菜園など自由に書いてます。

2005年05月

モノ書き魂

今週は文書を書くことが非常に多かった。まぁこれが本業なので嬉しい悲鳴である。分類で言うと3種類の文書を書いた。

 まず、生命保険関係解説文を3本ほど。このうち1本はやや長編(5000字ぐらい)で、2本は短編(1800字ぐらい)。双方ともデータや図表なども含めるムック形式。結構集中力いる作業であった。でも最も好きな分野の文書だから基本的に楽しい作業。いくらでも書いちゃうよ〜とノリノリで書きまくり。

 また、データを探して分析するもの私の好きな作業。今回は、文部科学省厚生労働省のデータサイトを探した。お国サイトのデータはとっても役に立つ。

 私は数字が詰まった統計表などを見るのが実は大好きなのだ。文字も好きだが数字だって多くのことを物語るのだよ皆さん。

 数字は0〜9までの10種類しかない。これが様々なことを表現する。例えば、少子化の影響で子ども達というのは大切な存在なはずなのに、教育費は上がる一方。教育に関して昔よりも貧富の差が激しくなっているのだ。この現象をどう思うよ?教育予算をもっと増やさないと国がダメになると私は思うよ。

 という具合に、データを分析するのは面白いのである。

 楽しい仕事だったけれど、しかし迫ってくる締め切りがプレッシャーだった。


 2番目に書いたのは、ある企業への状況説明と抗議の文書。これは7000〜8000文字。時系列で状況説明を書き、相手の間違いを指摘したという、まぁそんなかんじ。

 ところで、私は普段は抗議や暴露を極力書かないようにしている。その理由は「ペンは強い」ということにある。例えば、JR西日本の事故の報道を見ていても、大企業が長年かけて脈々と培った企業体質を、一気に変えざるを得ないほどのに1本のペンに力がある。ジャーナリストは、その力を肝に銘じないといけない。

 文字による抗議は、口で言うより時に強い威力があるが故に責任もあるので、普段は慎重だが、でも今回はどうしてもの必要性を感じて書くことにした。ある意味力作だったかも。結果はまだ出てないが。。。


 次は、ある人への状況説明とお詫びの文書。ある人に仕事上で迷惑をかけてしまったことへのお詫びと、何故そういうことが起こったかの状況説明である。

 誠心誠意謝ったと思う。その結果、相手の人は理解をしてくれて良い方向に進みそうだ。こういう結果になると、書いた意味を感じてホントに嬉しいと感じる。


 という具合に3つの文は、それぞれ正反対とも言えるような性質の文書だったが、どれもこれも私には書けることを再確認した。


 ちなみに、抗議文を書く最中は”冷静なる怒り”をイメージしながら書き、謝り文は相手への申し訳ない思いを最大限イメージし、解説文は判りやすさと説得力と読み手の理解力を何度もイメージした。

 そうやって集中力を働かせて文を書いている時、自分の脳内が活性化して興奮状態になるのがわかる。アドレナリン出まくっているってカンジかな〜?長時間集中力が維持されて全く眠くならずノリノリになるのだ。しかし限界が来ると、切れたようにダウンし1〜2日ぐらいは休養に当てないと死にそうになる。ホント死ぬんじゃないだろうか?(^^;

 でもね、すっげー達成感あるんだよなー。病み付きになりそうだ。

母の日

昨日は全国的に母の日だった。長女からワインを、次女からはマグカップを手作りの花をプレゼントされ、チョ〜嬉しかった。

私は昼間は原稿書きで一日中パソコンに向かい、子ども達はそれぞれの用事で外出していたので母の日のことなどスッカリ忘れていたが、夜になって帰宅してきた娘達が、次々にプレゼントをくれた。

幸せだな〜と思えた夜だった。

ワイン1 ワイン2












マグカップ2 マグカップ1

ベンチャー気質

私が短大1年生となり東京で一人暮らしを始めてすぐに、アルバイトを探して決めたところは、リクルート社の代理店をしている広告代理店だった。
 
リクルートという会社は、昔から(多分今も)非常に活気のある会社で、とくに大きな特徴と言えるのが、正社員もバイトも契約社員も職場に置いては同じように働き、同じように責任が与えられていて、例えば学生のバイトが第一線の営業マンであったり、事務管理部門で手腕を発揮している、というようなことも当たり前であった。
 
リクルートの関連会社や代理店もその社風を大いに受け次いで、同様に若いスタッフや学生や若者などのバイトが社員顔負けの仕事振りを発揮しているところは多かった。
 
私がその会社にバイトで入ったのは大学1年18歳の5月。半年後にその会社は営業部門が独立し13人で新しい会社としてスタートを切ることになる。その際のいざこざで数名のスタッフが退職し、そのため、それまで単なるバイトとしてテレアポや事務の手伝いを言われるままにやっていた私は、いきなり「営業庶務」というたった一人の事務管理担当責任者となった。
 
他は営業マンだったので、誰も事務の仕事の内容を知らず、私は自分で一つ一つを調べ、それでもわからないことは自分なりの管理のしかたを考えて体制を作っていった。数ヶ月が過ぎた頃には、いつしか事務管理体制を整え、ついには営業マンを叱咤激励し時には指導するぐらいになっていた。
 
更に、相手が企業のお偉いさんであろうが年配の社長さんであろうが、ものともせずに交渉出来るようになり、怖いものなど何も無く、若さゆえの勢いに乗って自信と遣り甲斐に満ちた仕事経験を学生時代に得たのである。
 
会社はバブル手前の追い風に乗って営業成績は右上がりに伸びた。仕事は常に猛烈に忙しく、誰もが自分の仕事に手一杯で、自分の仕事は自分で模索して覚えるのが当たり前であり、会社の指導や指示を待つだけの人などひとりもいなかった。
 
これは今で言うところの”ベンチャー気質”のようなものだろう。私はそこで仕事を覚えたので、それがあたり前の仕事のスタイルだと長年思い込んでいたぐらいである。
 
保守性の強い金融業界では考えられない体制だと思う。なにしろ学生バイトの十代の小娘が、年上の営業マンのポケベルを呼び「数字入った?取らなきゃ帰ってこなくていいよ!」などとハッパをかけたりしていたのだから。
 
今となっては恥ずかしくなるぐらい生意気で未熟だったと思うが、でも、あの頃は若さゆえの自信に溢れて、そして仕事が楽しかった。
 
当時13人でスタートし社長も33歳という若さだったその会社は、今は100人以上の社員がいる企業になっている。懐かしい古巣なのだが、残念なことに別れた元夫が在籍しているので今は接触できないが。
 
私はその会社にいたのはたった2年である。その後、私は早期に職場結婚をして、世の中がバブル景気やジュリアナやらお立ち台のブームに沸く頃、ひとり子育てに身を投じていたので、景気恩恵の経験は全くと言って良いほど受けていない。しかしおかげで地道な努力をすることを苦に思わないままでいられたので、これで良かったと思っている。
 
その後、ひょんなことから保険業界に足を踏み入れることになったのだが、その話はまたの機会に。
 
なお、大学時代がまるまる、大学そっちのけでバイトに精を出す日々だったわけだが、今思えば奇跡に近いと思えるが、何故か無事に短大を卒業出来た。短大の先生たち、本当にアリガトウ(涙・涙)
 
 

祖父が語った戦争の歴史 = 中国と日本 =

 いつか書こうと思っていたことをこの機会に残しておく。

 私の母親は幼少の頃に中国の満州というところに住んでいて、危ういところで残留孤児にならずに、家族と共に6歳の時に帰国を果たしたひとりである。その時の話を、私が子どもの頃に何度と無く、今は亡き祖父から聞かされた。

 祖父の話によると、祖父は満州鉄道という会社で、ある程度の地位にあったらしく、満州では祖父一家はかなりの金持ちだったらしい。

 日本の敗戦が確定していたある日、祖父は会社で考え事をしながらフと思い立って席を立ち上がったその瞬間、会社にソ連兵が乱入し、無差別に機関銃を撃ちまくった。祖父の席には銃弾が3発残り、あの時立ち上がっていなければ死んでいただろう、という話から、祖父の敗戦引き上げの話は始まっていた。

 多数の日本人が満州という夢の新天地に移り住み、現地の中国人を使用人として贅沢な日々を送る中で、祖父は、回りの日本人が満州人を苛める様を見て反感を感じ、そんな日本人達を制したり、また自分達の回りの満州人には極力親切にしてきたと言っていた。確かに、祖父は私が知っている頃でも、常に正義感が強く弱い者虐めが大嫌いな人だった。

 そのことで、日本が敗戦して引き上げる際に、祖父一家を影ながら支援してくれた中国人が複数名いたそうである。そのおかげで幼い子ども4人や親族を引き連れて帰国が出来たというような話をしていた。

 それでも引き上げ道中の様子は悲惨を極めるものだった。

 すし詰めの貨物列車に長く乗っている時は、列車から転落死する子どもや、引率するソ連兵に撃ち殺される人が多数出た。とくに、赤ん坊達はミルクを欲しがって激しく泣くたび銃口を向けられ命の危機にさらされた。祖父は密かに持ってきた時計や宝石を渡してはソ連兵の機嫌を取った。「多くの日本人を守りたかったから」と祖父は言っていた。

 貨物列車を降りて船に移ってからは、更に悲惨な状況になる。船上は最初、一度立ち上がると座る隙間が無くなるような満員状態にあり、一日一食、海水に芋の茎が数本浮かんだだけの食事という中、同乗した約1/3の日本人が途中で死亡した。毎日、亡くなった人の遺体を海に葬り手を合わせる儀式が繰り返されたことを、私の母も覚えているという。

 祖父は船上でも皆を統率しようと奮闘する。腕っ節に自信があった祖父は、あちこちで起こる喧嘩やトラブルを止めて歩き、また多数の病人を介護して飛び回り、自分の空腹さえ忘れるほど情熱的に働いた。

 全財産を没収され、密かに持った金品もソ連兵にすべて渡し、祖父一家は命からがら一文無しとなって日本に辿りつく。もちろん、引き上げ日本人は誰もがそうであったろう。

 しかし祖父は無残な時代の話を、常に自分なりの栄光の武勇伝として明るく語っていた。「辛いという気持ちは全く無く、ただ頑張るぞという気持だけで、むしろ張り切っていた」と祖父は言っていた。それは幼なかった私の心に、正義と平等と平和の大切さと人の命を尊さを、強く残すものだった。

 そして、中国の人と仲良くしようとした祖父と、そんな祖父を助けてくれた中国の人たちの話は、私の心に「中国の人は友達」という印象を残した。自分を「大人(=目上の人や尊敬する人のこと)」と呼んでくれた満州の人達に、いつかもう一度会いたいと、祖父は懐かしそうに話していた。祖父の話の中では、武力行使をしたのはソ連兵であり、中国人は親切な人達とだけ語られていた。

 本当は国を奪われた中国の人が、奥底にどんな思いを秘めて祖父を「大人」と呼んでくれたのか、その真意はわからない。祖父は正義の人であり、また純粋な人でもあったと思う。でも祖父が信じたように、私も、国と歴史と時代を超えるものが人と人の間にはきっとあるはずだと信じたい。

 その後、祖父一家は貧困の中でも常に明るく生きたことを、今でも仲の良い親族を見ていて感じている。

日常会話

 日常会話の中でのこと。

 次女に「うちって家族仲良しだよね?」と聞くと「うん」と答えた。更に、「家族のこと、好き?」と聞くと「うん好きだよ」と答えた。また更に「うちって、イイ家族だと思ってる?」と聞くと「思うよ」と答えた。

 なんか嬉しいぞ。

 調子に乗って「じゃあ、お母さんのこと好き?」と聞くと、次女は笑いながら「まぁね」と言う。

 よしよし。

 もっと調子に乗って「私のどんなとこが好きなの?」としつこく聞くと、

 

 

 「え〜とねぇ、そういうウザイ質問するとこは大キライ」とご回答。

 がっくし↓

 

 「うそうそ、お母さんが仕事頑張ってるとことか尊敬してるよ」と次女が笑いながら言った。

 お気遣いありがとう。(苦笑)

 毒舌も言えるほどに大人になった次女は、強く逞しく明るい人へと成長し、私の身長を7cm上回っている。

 お母さん大好き、と駆け寄ってきたあの頃も可愛かったけれどネ、長身になった今も結構可愛いよ。

 

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