2004年08月

2004年08月10日 01:50

 先週末の日曜、次女が中学校で所属しているマーチングバンド部が、浅草の商店街の納涼祭りのパレードで演奏をするとのことで、私も浅草に出かけた。

 次女の学校は高校までの一貫教育なので、部活動には高校3年生までが参加している。次女は中学1年生としてはたった一人の新入部員で、先輩たちと体力の差がありながらも懸命に部活動に励んでいた。

 彼女のパートはトランペット。しかし私は彼女が実際に演奏している姿を一度も見たことが無いので、本当にちゃんと吹けているのか、皆についていけているのか、心配と頼もしさの両方を感じてきた。

 猛暑の中、目的地に到着しハンディカム片手にパレードの開催を待つ。
 いよいよ通りの向こうからマーチングバンドの演奏が聞こえ、一糸乱れぬ足並みでカッコイイコスチュームにテンガロンハットといういでたちのバンド部隊と、旗を振りながら踊るガードと呼ばれる部隊が近づいてきた。

 スゴイ。ディズニーランドのパレードを見ているようだ。

 本当にこの中に次女がいるのだろうかと探すと、いました、いました。しかもちゃんとトランペットを演奏しているではないか!(当たり前だが)

 ビデオカメラを回しつつ、カメラを持つ手が思わず震えた。
 こういうの親バカというのでしょうね。
 末っ子というのは親にとってはいつまでの小さな子のような気がするもので、だから一人前の姿を見るとかなり感情移入してしまう。(うるうる)

 真剣な眼差しでトランペットを吹く姿、演奏の合間は街頭の人々に手を振りながら歩く様子、拍手や注目の中で一糸乱れぬ行進を続ける次女はとても大きく見えた。

 さて、夕方家に帰ってきた次女は、疲れた、暑いと愚痴を言いまくり、お腹すいたを連呼し、ご飯を食べるとまたもテレビの前で爆睡。よほど疲れたらしく昼間の勇姿は見る影もなかった。

 やれやれ。。。ご苦労さん。。。



 仕事でも人生でも、人は生きる限り、何か夢や目標を持つものだと思う。

 で、私の場合。
 
 ある時期から、私は夢や目標というのは達成させることよりも、達成するまでのその行程に意義がある、と思うようになった。

 サラリーマン時代に営業をしていた私は、回りの人になんとなく一風変わったヤツと見られていたらしく、とくに最初の頃は、何かにつけて異端の目で見られることが多かった。そのためにシカトされたり根も葉もない噂が出回ったりと散々な目に合ったこともある。そのことを今更どうこういうつもりは全然無いのだが、それよりも、そんな風にあから様に異端な目で見ていた回りの人々が、ある日、私が大きな営業数値を挙げると、突然手のひらを返したように、「あなたならきっと出来ると思っていた」「頑張ったわね」などと賛美を唱え、羨望の目で見られる、という経験をした。

 褒められたことは素直に嬉しいなと思ったけれど、しかし私は昨日までの私と何かが変わったわけではないので、人々の評価がこんなにも変わるものなのか、ということに驚いた。

 その時、、回りの評価というのはあんまり意味が無いものだということを実感した。なにしろ「結果」は努力の積み重ねの先に”オマケ”の如く付いてきただけなのだから。

 そして振り返ってみると、散々な目に合いながらも努力の継続を辞めずに淡々と仕事に打ち込んできた日々が非常に眩しく、そこに達成感を感じた。なんというか、継続するということはすっごく大事なんだなーと感じた。そして自分がそうできたことが、何よりも本当に良かった、と思ったのである。

 その後。
 回りの羨望の目は、今度はだんだんと嫉妬の目に変わって足の引っ張り合いに巻き込まれるという羽目に合う。人間の感情は摩訶不思議だ。

 しかしそれでも、私は最初の経験から、常に努力を積み重ねるべき、という発想が揺るがないものになっていたので、自分の道を自分で切り開くことを諦めようとは思わなかった。

 だって、努力の過程に意味があるのだから、夢がすぐに叶ったらあまりにつまらないじゃん。

 達成することよりも、達成しようと頑張る日々を満喫したい。

 だから今日も、夢に向かって飽くなき一歩を踏み出す。それが最高に面白い。



2004年08月07日 01:41

 私は物事を感覚的に捉えて”カン”で方向性を定めることが多いらしい。
らしい、と書いたのは、人からそういうことをよく言われるからだ。以前は、自分ではあんまり意識していなかったことだが、あまりによく言われるので、今では自分でもそういうことにしておこう、と思っている。

 実は昔、私はテストのヤマをよく当てた。

 試験直前の授業の時に、先生の解説の中に微妙なニュアンスや反応の違いなどいつもと違う何かを感じて、コレは試験に出るだろう、あるいは出ないだろう、というようなことを直感で感じてきた。試験が終わって(やっぱりなぁ)と思うことが多かった。

 そういう感覚は、今、仕事の場面でも表現されていると思う。

 何の脈絡も無く判断をしているわけではないが、しかし明確な分析をしているというまではいかなくて、そういうのを「カン」と言うなら、私はカンで生きている人かもしれない。


 ところで、見た人は知っていると思うが「ファインディング ニモ」という海の魚が主人公となるディズニー映画の中に「ドーリー」というトボけたキャラクターが登場する。彼女は常に自分の心の声や直感に従って生きていて、理屈でアレコレ考えるニモのお父さんよりもずっと的確に、ニモを探し出す道へと、ニモのお父さんを導く役目を果たす。ドーリーの判断はいつも、メチャクチャのようでも実際は潜在的な感覚によって理屈を飛び越えて方向性を見出している。

 ドーリーを見ていて、この感覚わかるなぁ、とフと思った私。

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