保険ジャーナリスト 森田直子のBlog

板橋区の片隅でヒッソリと保険ジャーナリストしてます。(有)エヌワンエージェンシー代表取締役、インスウオッチ発行人。2010年11月に頚部脊柱管狭窄症で手術を受け足腰がやや不自由な身となりましたが、なぜか原稿書くスピードはどんどん速くなり日々原稿書きに追われております。仕事&シングルマザー生活&趣味のベランダ菜園など自由に書いてます。

経営を考える

 先日のセミナーで、経営品質という話を聞いた。これが講師の方が優秀だったこともあって非常にわかりやすくすこぶる面白かった。講師の先生は望月広愛氏という。興味のある方は師の書籍「これが実践!超お客様満足主義―経営品質の理念が会社を救う」をご一読あれ。

 経営の方向性を「すべてお客様を主体に考える」という、一見どこにでもありがちな考え方だが、しかしこれを徹底して貫くと案外方向性が見えてくる。

 例えば、仕事を効率化しようと考えた時、ある業務がいくら非効率と思えても、それが「お客様のために必要」であればやるべきだし、逆にお客様にとって影響の無い業務は効率化の対象と考えられる。自社のメンツよりもお客様にとってどうなのかということがすべての答え、ということだ。

 当たり前といえば当たり前だが、しかし事実出来てない経営者はゴマンといることだろう。

 それから、もう一つ面白かったのは会社の方針として「可謬主義(かびゅうしゅぎ)」という考え方をする、という話。謬(びゅう)とは「マチガイ」という意味で、直訳すればつまり「間違ってもいいよ」ということだ。

 現場の判断において例外的判断を可とすることや、間違いを冒すリスクを避けて行動を起こさないのは本末転倒となる、ということでもある。つまり、間違ってもいいからやってみようぜ〜という方針を会社として取りましょう、ということだ。

 ミスを成長の材料に出来たり、顧客からのクレームを隠さずに皆で考えられる企業は、きっとメンバーが活き活きとしているだろうし、そんな企業はドンドン成長するだろう。

 もう一つなるほどと思ったことは、会社の方針・規律・約束事について「規則で縛るのではなく、原則で引っ張る」という表現だ。

私などは組織のしきたりとか規律を守るとかいう常識論を苦痛に思うタイプで、とにかく縛られるのが大嫌い。そんな自分が人を引っ張る際には、どうしても規律でがんじがらめにしたくないと思うから、方向性が曖昧になりがちとなる。一体どうしたら自分でも納得して人をまとめられるかと考えた時に、原則で引っ張ることを基本とすればいいわけか、なるほど、と答えが見えた気がした。

 他にも色々面白い話はあったが、またの機会に書くことにする。

 仕事は面白くなければ続かない。面白い仕事をし続けたいと思っている。

インターネットコミュニケーション

 ビジネスの世界で、今やネットを使いこなすのは当たり前という時代だが、インターネットというメディアが日常的に利用されるようになってホントはまだ数年しか過ぎてない。

 私自身はインターネットを使うようになって約7年。私の所属する保険業界ではちょっと早目のスタートだったが、しかし今や保険業界でもネットを使いこなすのは当たり前となり、使えない人は仕事出来ないまでに浸透している。

 そんな時代が来ても、未だに時々感じることだが、インターネットというコミュニケーションツールの特性をイマイチ理解していない人が結構多いような気がする。「大切なことは顔を見て話すべき」と言う人がいるが、ネットでのコミュニケーションのコツを掴めば、大切な話も肝心な部分の意思疎通もネットでちゃんと出来るはず、と私は思う。

 時々、ネットでのやりとりでトラブルが起こることがあるが、トラブルを起こしやすい人の原因を探ると、ネットコミュニケーション技術の不足や使い方のマチガイという原因も見えてくる。その辺のマチガイを系統立てたり、陥りやすい誤りや、トラブル時の解決方法などを考えていくと、結構奥の深い世界がある。

というわけで、私はインターネットコミュニケーション術について、今まで無意識に習得してきたことを改めて分析し、理論的な方法論を自分なりに掘り下げてみたいと思っている。

ITと言えば、パソコンやインターネットという最先端の技術や利便性にばかり目が行くが、それを使いこなすには人間的な要素があってこその世界である。メンタルや人間くさい要素が無視されれば、途端に費用を喰うだけのシロモノと化すのだ。活かすも殺すも人間次第だネ。

小さな戦士の勇姿

 先週末の日曜、次女が中学校で所属しているマーチングバンド部が、浅草の商店街の納涼祭りのパレードで演奏をするとのことで、私も浅草に出かけた。

 次女の学校は高校までの一貫教育なので、部活動には高校3年生までが参加している。次女は中学1年生としてはたった一人の新入部員で、先輩たちと体力の差がありながらも懸命に部活動に励んでいた。

 彼女のパートはトランペット。しかし私は彼女が実際に演奏している姿を一度も見たことが無いので、本当にちゃんと吹けているのか、皆についていけているのか、心配と頼もしさの両方を感じてきた。

 猛暑の中、目的地に到着しハンディカム片手にパレードの開催を待つ。
 いよいよ通りの向こうからマーチングバンドの演奏が聞こえ、一糸乱れぬ足並みでカッコイイコスチュームにテンガロンハットといういでたちのバンド部隊と、旗を振りながら踊るガードと呼ばれる部隊が近づいてきた。

 スゴイ。ディズニーランドのパレードを見ているようだ。

 本当にこの中に次女がいるのだろうかと探すと、いました、いました。しかもちゃんとトランペットを演奏しているではないか!(当たり前だが)

 ビデオカメラを回しつつ、カメラを持つ手が思わず震えた。
 こういうの親バカというのでしょうね。
 末っ子というのは親にとってはいつまでの小さな子のような気がするもので、だから一人前の姿を見るとかなり感情移入してしまう。(うるうる)

 真剣な眼差しでトランペットを吹く姿、演奏の合間は街頭の人々に手を振りながら歩く様子、拍手や注目の中で一糸乱れぬ行進を続ける次女はとても大きく見えた。

 さて、夕方家に帰ってきた次女は、疲れた、暑いと愚痴を言いまくり、お腹すいたを連呼し、ご飯を食べるとまたもテレビの前で爆睡。よほど疲れたらしく昼間の勇姿は見る影もなかった。

 やれやれ。。。ご苦労さん。。。

結果より過程

 仕事でも人生でも、人は生きる限り、何か夢や目標を持つものだと思う。

 で、私の場合。
 
 ある時期から、私は夢や目標というのは達成させることよりも、達成するまでのその行程に意義がある、と思うようになった。

 サラリーマン時代に営業をしていた私は、回りの人になんとなく一風変わったヤツと見られていたらしく、とくに最初の頃は、何かにつけて異端の目で見られることが多かった。そのためにシカトされたり根も葉もない噂が出回ったりと散々な目に合ったこともある。そのことを今更どうこういうつもりは全然無いのだが、それよりも、そんな風にあから様に異端な目で見ていた回りの人々が、ある日、私が大きな営業数値を挙げると、突然手のひらを返したように、「あなたならきっと出来ると思っていた」「頑張ったわね」などと賛美を唱え、羨望の目で見られる、という経験をした。

 褒められたことは素直に嬉しいなと思ったけれど、しかし私は昨日までの私と何かが変わったわけではないので、人々の評価がこんなにも変わるものなのか、ということに驚いた。

 その時、、回りの評価というのはあんまり意味が無いものだということを実感した。なにしろ「結果」は努力の積み重ねの先に”オマケ”の如く付いてきただけなのだから。

 そして振り返ってみると、散々な目に合いながらも努力の継続を辞めずに淡々と仕事に打ち込んできた日々が非常に眩しく、そこに達成感を感じた。なんというか、継続するということはすっごく大事なんだなーと感じた。そして自分がそうできたことが、何よりも本当に良かった、と思ったのである。

 その後。
 回りの羨望の目は、今度はだんだんと嫉妬の目に変わって足の引っ張り合いに巻き込まれるという羽目に合う。人間の感情は摩訶不思議だ。

 しかしそれでも、私は最初の経験から、常に努力を積み重ねるべき、という発想が揺るがないものになっていたので、自分の道を自分で切り開くことを諦めようとは思わなかった。

 だって、努力の過程に意味があるのだから、夢がすぐに叶ったらあまりにつまらないじゃん。

 達成することよりも、達成しようと頑張る日々を満喫したい。

 だから今日も、夢に向かって飽くなき一歩を踏み出す。それが最高に面白い。

カンで生きてる?

 私は物事を感覚的に捉えて”カン”で方向性を定めることが多いらしい。
らしい、と書いたのは、人からそういうことをよく言われるからだ。以前は、自分ではあんまり意識していなかったことだが、あまりによく言われるので、今では自分でもそういうことにしておこう、と思っている。

 実は昔、私はテストのヤマをよく当てた。

 試験直前の授業の時に、先生の解説の中に微妙なニュアンスや反応の違いなどいつもと違う何かを感じて、コレは試験に出るだろう、あるいは出ないだろう、というようなことを直感で感じてきた。試験が終わって(やっぱりなぁ)と思うことが多かった。

 そういう感覚は、今、仕事の場面でも表現されていると思う。

 何の脈絡も無く判断をしているわけではないが、しかし明確な分析をしているというまではいかなくて、そういうのを「カン」と言うなら、私はカンで生きている人かもしれない。


 ところで、見た人は知っていると思うが「ファインディング ニモ」という海の魚が主人公となるディズニー映画の中に「ドーリー」というトボけたキャラクターが登場する。彼女は常に自分の心の声や直感に従って生きていて、理屈でアレコレ考えるニモのお父さんよりもずっと的確に、ニモを探し出す道へと、ニモのお父さんを導く役目を果たす。ドーリーの判断はいつも、メチャクチャのようでも実際は潜在的な感覚によって理屈を飛び越えて方向性を見出している。

 ドーリーを見ていて、この感覚わかるなぁ、とフと思った私。
☆著書のご案内☆
タグクラウド
アクセス解析
アクセス解析
アクセス


アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

QRコード
QRコード
Recent Comments